日本人なら1度は「芥川賞」を聞いたことはあるでしょう。その芥川賞のもとになったのは芥川龍之介だということもみんな知っていますよね。ですが、有名な芥川龍之介がどのように生き、どのように亡くなったのかを知っている方はどれほどいるでしょうか。
せっかくなら名前だけではなく、その生涯も知っておきたいですよね。今回は芥川龍之介の生涯や、彼はどんな人だったのかをご紹介したいと思います。
また、年表で芥川が生きた時代に何が起こっていたのかも併せて紹介します。イメージが湧きやすいと思うので、ぜひ参考にしてくださいね。
芥川龍之介の生涯
激動の少年期~青年期
芥川は1892年に東京に生まれました。しかし、幼いころに母親のフクが精神的な病になってしまい、母の実家の芥川家の養子となりました。
芥川は叔母のフキに育てられたのですが、この人は非常に教育熱心な人で、文学が大好きだったといいます。のちに作家として有名になる土台がこのころに育まれていたのでしょう。
芥川は学校の成績も非常に優秀でした。高校では授業料が免除され、今の東京大学に進学しています。大学では英文学を学び、当初は海外の小説を日本語に翻訳して発表していました。
夏目漱石の激励

23歳の時には有名な「羅生門」を書き上げ、すでに有名になっていた夏目漱石の門下に入っています。大学卒業が迫った25歳には「鼻」を執筆し、漱石に絶賛されました。
君の作品は大変面白い。しかし「鼻」だけでは多くの人の眼には触れないだろう。
人が見ても無視をするかもしれない。でも、そんな人たちは眼中に入れずにずんずん進みなさいよ。
このような漱石の激励は、芥川には大きな自信になったに違いありません。大学を出た当初は、英語の教師として働きながら小説に取り組んでいました。この頃には「蜘蛛の糸」が書かれていますね。
小説家としての成功と苦しみ

小説家としても有名になってきた芥川は毎日新聞に入社するのですが、「会社に行く必要はなく、新聞連載用の小説を書けばよい」という条件だったのですから驚きです。ちょうど、この頃に友人の姪に当たる塚本文と結婚。彼女との間には3人の子供に恵まれています。
幸せな生活を送る芥川でしたが、30歳を過ぎたころから心身が衰え始め、作品を出す頻度も減っていきました。晩年には代表作と呼ばれる「歯車」が書かれていますが、その中でも幻覚を見たり頭痛で苦しむ芥川の様子が描かれています。
そして、1927年芥川は35歳の若さで、自ら命を絶ってしまったのです。
芥川龍之介はどんな人だった?
若くして亡くなった芥川ですが、どんな人だったのでしょうか。
今回は、彼の容姿・性格・恋愛・人生観という切り口で詳しく見てみたいと思います。
容姿
顔立ちは整っており、「イケメンな文豪」と言われるときには必ずといっていいほど話題に上がっていますね。しかし、本人は自分の「ヘチマのような長い顔」がコンプレックスだったといいます。
身長は167㎝と言われていますが、これは推定の値だと思われます。写真を見る限りかなりやせ型だったようです。
性格
芥川は神経質な部分があり、本人もそのことを自覚していました。自分の子供たちにも自分の神経質さが遺伝していると思い込んでいたようですから、相当悩んでいたのでしょう。その一方で子供達には非常に優しい父親だったといいます。
恋愛
芥川は生涯で多くの恋をしています。最初は、家にお手伝いとして働いていた吉村千代に惹かれました。ですが、あまりにも家柄が違うことから、身を引いたのです。
次に恋心を抱いた相手は吉田弥生という女性でした。彼女は家柄もよく青山学院大学という学歴もあり、お似合いの相手だったのですが、芥川家の人たちから厳しい反対を受け、それ以上の進展はありませんでした。
その後は先ほども触れたように塚本文と結婚、子供に恵まれます。しかし、結婚生活には不満もあったようで、秀しげ子という女性と浮気をしてしまいます。また、晩年には片山廣子という女性とも関係があったと判明しました。
人生観
人生については悲観的な見方をしています。最も顕著なものは「ただ、ぼんやりとした不安」と言い残し自ら命を絶ってしまったことでしょう。また、芥川の「名言」と呼ばれるものの中にも、人生について語るものは数多くありますが、その多くが絶望に満ちています。
例えば、「人生は地獄より地獄的だ」という言葉はその代表的なものですね。とりわけ晩年は人生に対して鬱屈とした感情を抱いていたことが、「河童」などの小説からも伝わってきます。
年表で見る一生
芥川はどんな時代に生きたのでしょうか。彼の生涯に当時の世の中の動きを加えて、年表にしてみました。
年代 | 出来事 | 世の中の動き |
1892年 | 誕生 | |
1902年 | 母、フクが亡くなる | |
1904年 | 芥川家の養子になる | 日露戦争が起こる |
1910年 | 第一高等学校に入学 | 大逆事件・韓国併合が行われる |
1913年 | 東京帝国大学に入学 | |
1914年 | 菊池寛らと共に「新思潮」発刊 | 第一次世界大戦勃発 |
1915年 | 「羅生門」を発表 | |
吉田弥生と親しくなるが反対を受け結婚を断念 | ||
夏目漱石の門下に入る | ||
1916年 | 「鼻」を発表 | |
1918年 | 「蜘蛛の糸」を発表 | |
1919年 | 塚本文と結婚 | |
1923年 | 心身が衰え始め、作品発表の頻度が下がる | 関東大震災が起こる |
1927年 | 「河童」を発表 | 治安維持法・普通選挙法が公布(1925年) |
田端の自宅で服毒自殺 |
こうして見てみると、日本が世界に進出し戦争が起きた激動の時代に芥川が生きていたことが伝わってきます。晩年には関東大震災も起こり、世の中は大混乱していました。
また、小説家として活躍した期間が意外と短いということもわかりますね。1915年に「羅生門」を発表してから、27年に「河童」や「歯車」といった最後の作品を書き残すまで、わずか13年しかありません。
この数字は彼の才能のすごさを物語っていますが、もう少し生きていたらどんな作品を残したのだろうと思うと残念ですね。芥川は短編小説を得意としましたが、いずれは長編でも成功を収めていたのではないでしょうか。
おわりに
今回は芥川龍之介の生涯や年表について詳しくご紹介しました。才能にあふれた人でしたが、心身の病に悩まされており、早くに亡くなってしまった芥川龍之介。
どうして、彼はそこまで人生を悲観していたのでしょうか。小説を読むことで、彼が何を考えていたのかが更にわかるかもしれませんね。
芥川のおすすめ作品についてはこちらで紹介しているので、気になる方は読んでみてくださいね。

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