1000円札の肖像画にも使用されていた夏目漱石は、日本人なら誰しも知っている文豪だと思います。
あまり本を読まないという人でも「夢十夜」や「走れメロス」、「坊ちゃん」などの小説は、国語の授業で扱ったのではないでしょうか。
しかし、漱石が小説を書いていたのはわずか10年間だけなのです。
幼いことから才能にあふれた人物でしたが、家族関係や政府からのむちゃな指令、さまざまな病気に翻弄された一生を送っています。
今回は知られざる夏目漱石の生涯を、簡単にまとめてみました。
また、漱石がどんな人だったのかを、容姿や性格、人生観という観点から紹介しています。
さらに、当時何があったのかを年表から読み解いていきます。
ぜひ、参考にしてくださいね。
夏目漱石の生い立ちと生涯
波乱に満ちた少年期
夏目漱石が生まれたのは、実は明治ではなく江戸時代の終わりでした。
1867年に東京の馬場下町に生まれ、本名は夏目金之助といいます。
漱石の父親は地元でも有力な名主で、裕福な家庭でした。
しかし、漱石は生まれてすぐに養子に出されてしまいます。
養父は浮気性で、家庭は荒れていました。
結局、養父母は離婚してしまい9歳の時に生家に戻ってきましたが、その後も養父から「金をくれ!」とせがまれることがあったといいます。
才能の発揮と苦しみの英留学
このように幼少期から波乱に満ちていた漱石ですが、学業面では非常に優秀でした。
とりわけ英語の才能は素晴らしく、現在の東京大学の英文学科に進んでいます。
学生時代から他の大学で講師をしたり、教授から依頼されて「方丈記」を英語に訳したり、さまざまな活動をしていました。
ですが、この頃には兄たちを亡くしたことで精神を病み、厭世的になっていったといいます。
大学を出た漱石は政府の命によってイギリスへの留学を命じられてしまいます。
「イギリス留学」と聞くと華やかな印象を受けますが、その内容は過酷なものでした。
留学資金は乏しく、漱石はビスケットをかじりながら飢えをしのいでいたといいます。
留学中の漱石は神経衰弱に陥り、精神的に不安定になっていきました。
有名作家への道
帰国後も神経衰弱に悩まされる漱石は、小説を書いて気を紛らわせることをアドバイスされます。
そうして、最初に書かれた小説が「吾輩は猫である」です。
この小説を皮切りに、「坊ちゃん」や「虞美人草」など人気作品を次々世の中に送り出し、一躍有名作家になっていきました。
有名になった漱石のもとには芥川龍之介なども弟子入りしています。
そうして漱石は教職を辞し、朝日新聞社の連載作家となりました。
しかし、胃潰瘍や神経衰弱に苦しめられ、入院を繰り返します。
また、静養のために訪れたお寺では、大量の吐血をして危篤状態に陥ってしまいました。
大変な中、「こゝろ」など「後期三部作」と呼ばれる作品を書きあげますが、容体は回復せず49歳の若さでこの世を去ったのです。
夏目漱石はどんな人だった?
才能に恵まれながらも、病気がちだった漱石。
彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。
漱石の容姿・性格・恋愛・人生観という観点から考察していきたいと思います。
容姿
1000円札の肖像画にも使用されたので、多くの方が漱石の顔を思い浮かべることができると思います。
ナイスミドルといった感じで、カッコいいですよね。
しかし、実は漱石は「あばた面」だったのです。
「あばた」というのは、ぶつぶつとしたくぼみが残ってしまうことです。
子供のころに天然痘にかかり、それが原因であばたになったといいます。
ですが、私たちの知っている漱石はきれいな顔をしていますよね。
実は、本人もコンプレックスを持っていたようで、現存している写真は修正されているそうです。
性格
気が短い性格で、怒鳴り散らしたり物を投げたり、妻や子供に暴力をふるったりしていました。
漱石は精神的に不安定なことがあったので、気が短い側面があったのでしょう。
また、非常に我の強い性格でした。
「漱石」というペンネームも「漱石枕流」という負けず嫌いを表す故事成語からとられています。
他にも、「先生の言っていることは辞書と意味が違う」と指摘されたとき、「辞書のほうが間違っているんだ、直しておきなさい。」と言い放ったなどエピソードには事欠きません。
恋愛
文豪たちは女性関係がめちゃくちゃな人が多いのですが、夏目漱石は真面目でした。
29歳の時に結婚してからは浮気などはなく、いちずといえばいちず。
先述の通りDV夫だったのですが、妻の鏡子は頑として漱石とは別れようとしませんでした。
鏡子の述懐を参照する限り、精神的に落ち着いていれば優しい夫だったようです。
人生観
多くの文豪がそうなのですが、彼も厭世的な考えを持っていました。
一方で、「吾輩は猫である」のような面白おかしい作品もあります。
病気に苦しみながらも自ら命を絶ってはいないですし、教え子の自殺に対しても割と否定的な見方をしています。
太宰治や芥川龍之介とは異なり、この世に絶望しきっていたわけではなさそうです。
年表から見る漱石の人生
夏目漱石が生きていた時代には何があったのでしょうか。
年表から激動の時代背景を探っていきたいと思います。
年代 | 出来事 | 世の中の動き |
1867年 | 誕生 | 大政奉還、王政復古の大号令 |
1868年 | 養子に出される | 戊辰戦争 |
1870年 | 天然痘の影響であばたが残る | |
1876年 | 生家に移る | 西南戦争(1877年~) |
1887年 | 長兄・次兄を相次いで亡くす | |
1890年 | 帝国大学英文科入学 | |
1895年 | 中村鏡子と結婚 | 日清戦争(1894年~) |
1900年 | イギリス留学 | |
1905年 | 「吾輩は猫である」を発表 | 日露戦争(1904年~) |
1906年 | 「坊ちゃん」を発表 | |
1907年 | 「虞美人草」を朝日新聞に連載 | |
1910年 | 胃潰瘍により入院、大量の吐血をする | |
1914年 | 「こゝろ」を連載開始 | 第一次世界大戦勃発 |
1916年 | 胃潰瘍が原因で死去 |
漱石が生まれたのは江戸時代がちょうど終わるときですね。
天然痘はすでに根絶されたのでなじみはないですが、江戸時代にはだれでもかかる可能性のある病気でした。
世の中は江戸から明治に移っていきますが、士族が抵抗し、それを政府が鎮圧するということが行われます。
その後はいわゆる明治維新の中、急速に近代化が進んでいく時代でした。
改革の結果、日本の軍事力も高まり世界の列強への仲間入りを果たしていきます。
夏目漱石は政府の命令でイギリス留学に行っていますが、それも「世界的に使用される英語の教育方法を学ぶため」であり、日本が世界進出を狙うという思惑に振り回されたとも言えます。
漱石自身もイギリス留学中に神経衰弱になり、「イギリス留学は最も不快な2年間だった」と述懐するほど大変な思いをしていたのですが、この時の経験がのちの文学作品につながっています。
例えば「吾輩は猫である」の中では次のような一節があります。
できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。
現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸でかけるではないか。
その因縁を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。
当時の日本は欧米の文化を取り込んで近代化を図っていましたが、そんな「西洋かぶれ」の日本人たちに対する批判をしています。
留学で本物の西洋人に触れてきた漱石には、西洋かぶれが滑稽に見えたのではないでしょうか。
その後、戦争が激しくなる中で、漱石は作家としての地位を確立していきましたが病状も悪化。
ちょうど今から100年ほど前に亡くなってしまいました。
おわりに
今回は夏目漱石の生涯と人物像を詳しく見てきました。
わずか10年間で人気作品を次々と生み出した漱石は紛れもない天才作家ですね。
彼はどんなことを考え、伝えようとしたのか。
詳しく知りたい方は、もう一度漱石の作品を読み返してみましょう。
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