夏目漱石と言えばどんな作品を思い浮かべるでしょうか。「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」、「夢十夜」などなど、有名作品が多数ありますよね。そんな漱石には「前期三部作」と「後期三部作」と呼ばれる作品群があります。
これらはいったい何を指すのでしょうか?また、どうして漱石の作風や主題が変化したのでしょうか?
このように考えていくと、意外と知らないですよね。今回はこれらの点を掘り下げて考察していきたいと思います。ぜひ、参考にしてくださいね。
前期三部作のテーマや内容
まず、「前期三部作」と呼ばれているのは、
- 「三四郎」
- 「それから」
- 「門」
の3つです。正直、漱石の作品の中では知名度が高いというわけではないですよね。それなのにどうしてこれらの作品が特別に扱われているのでしょうか。
その理由は、作品の中につながりがあるからです。もちろん、3つの作品は別々の物語ですし、登場人物も全く違います。ですが、ストーリーだけを見るとあたかもつながっているように感じるのです。
「三四郎」では熊本から上京してきた青年が、社会にもまれ、好きだった女性を兄の友人に取られながらも成長していく様子が描かれています。次の「それから」では、主人公が、あらゆるものを犠牲にして友人の妻を手に入れるという内容です。そして最後の「門」では、親友の妻を奪って結婚してしまった男が、罪悪感を抱きながら暮らしていく様子が描かれているのです。
このように、独立した作品でありながら、「失恋」、「友人の妻を奪う」、「結婚後の暮らし」というように一連のストーリーのように読めてしまうのです。なので、実際に読む際には「三四郎」、「それから」、「門」という順で読むことをおすすめします。
後期三部作のテーマや内容
漱石の「後期三部作」と呼ばれているのは、
- 「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」
- 「行人(こうじん)」
- 「こころ」
の3作品です。前期三部作に「ストーリーの流れ」という特徴があるのに対して、後期三部作には物語のつながりはありません。は、なぜこれらの作品がまとめて扱われているのでしょうか。
それは、テーマに共通性があるからです。一言でいえば、後期三部作ではエゴイズムとそれに伴う苦悩について描かれています。
…そう言われてもよくわからないですよね。「エゴイズム」というのは辞書で引くと「利己主義、自分のことしか考えていない」というように説明されていますが、私としては「自分の利己的な思いに振り回されてしまう」くらいに捉えたほうがよいと思います。
例えば、「彼岸過迄」では須永という男が登場します。千代子という女性を恐れ結婚する気はないと述べながらも、彼女に別の縁談が持ち上がると嫉妬の炎を燃やしていくのです。
「行人」では自分の妻を理解できない一郎が、弟に彼女と一晩過ごすように持ち掛けます。また、その後は一郎の様子の苦悩が手紙という形で描かれています。一郎は純粋なものを求めすぎて、狂っていくと言えるかもしれません。
「こころ」においても、叔父に裏切られた「先生」が、自分も同じように親友のKを裏切ってしまったことへの葛藤が描かれています。
このように三つの作品に登場する人物たちは、自分の思いによって苦しめられ、悩んでいるのです。なので「エゴイズム」という観点から書かれた作品群とまとめることができるのですね。
漱石の作風が変わったのはどうして?
このように前後期の三部作を比較してみると、前期は恋愛をテーマにしていたのに対して、後期はエゴイズムが浮き彫りになっています。どうして、このような作風の転換があったのでしょうか。
主なきっかけとして考えられているのは、「漱石が病気になった」ということです。漱石は「門」を執筆途中で胃潰瘍を患い入院しました。その後は静養のために伊豆に訪れたのですが、大量に吐血をしてしまい、生死をさまよいます。「修善寺の大患」と呼ばれるこの事件をきっかけに、漱石はエゴイズムをえぐり出す作品を生み出すようになっていきます。
やはり生死をさまよって、何か漱石にも感じるところがあったのでしょう。私自身、死がさし迫った体験をしたことはないのですが、漱石のような体験をすれば余計に自分の内部に目が向くようになるのかもしれません。
そして、人間の汚い、暗い部分に注目し作品に反映させたため、作風がガラッと変わったのだと思います。
おわりに
今回は夏目漱石の前後期の三部作や作風の変遷についてご紹介しました。実際に読んでみると感じるのですが、漱石はさまざまな顔をのぞかせる作家です。
あまり彼の作品を読んだことがないという方は、ぜひ他の作品にも手を伸ばしてみてくださいね。 前期・後期の三部作については、こちらにまとめて収録されているのでおすすめです!
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