高校の教科書にも載っている有名な作品が中島敦の「山月記」です。李徴が虎になってしまう物語として何となく記憶に残っている方も多いのではないでしょうか?
ですが、全体としてどんな話だったのか、また李徴はどうして虎になったのかをきちんと説明できる人は少ないですよね。
今回は山月記の簡潔なあらすじと詳しい解説をしていきます。併せて登場人物の紹介や物語の背景もご紹介します。内容を整理したいという方は参考にしてくださいね。
目次
山月記の登場人物と背景
この物語の主な登場人物は2人です。
1人は李徴(りちょう)という男。
才能にあふれた人物で、地方の役人として働くことに耐えられず、詩の道で名を上げようとします。
しかし、なかなか上手くいかず、結局地方の役人として働きました。自分のプライドの高さから精神的に追い詰められ、ある日を境に人食い虎に変じてしまいます。
2人目は袁傪(えんさん)という人物。
彼は李徴と同じ年に科挙に合格した古い友人です。非常に温和な性格で、李徴とは親友とも呼べる間柄でした。
現在は監察御史という役職で、地方の見回りをする中、虎になった李徴と出会いました。
「山月記」というのは中島敦の作品ですが、モデルになった物語があります。それは「人虎伝」という話で、清代の中国で書かれたもの。
こちらでも李徴が虎になるという流れは同じなのですが、虎に変じた理由が「山月記」とは異なっています。なぜ李徴は虎になってしまったのかについては、後ほど詳しく見ていきましょう。
山月記のあらすじ
唐代の中国に李徴という男がいた。故郷では「鬼才」とまで呼ばれ、若くして科挙に合格し地方の役人になるほどの人物だった。
しかし質の悪い生活は彼には耐え難く、詩作の道に進むことを決断するが、芽はでない。
李徴は妻子を養うため再び下級役人の職に就くが、かつて見下していた連中が出世しているのを見て、自尊心はボロボロになる。
ある時、限界を迎えた李徴は、夜中に野山へ駆け出したかと思うと、不思議なことに虎になってしまった。虎として、理性が徐々に失われる中、古い友人の袁傪に出会う。
袁傪に対して、自作の詩を披露し、「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」によって化け物になってしまったことを語る。
やるせない境遇を吐露し、自嘲する李徴に同情の念を隠せない袁傪。「妻と子供のことを頼む」という李徴の頼みに、涙を流しながらうなずいた。
月光に照らされる中、李徴は虎の姿を友にさらし、草むらに消えていくのだった。
山月記の解説
「山月記」でポイントとなるのは、「どうして李徴は虎になったのか」という点です。
これを理解するためには、李徴がどんな人物で、どんな心情の変化があったのかを詳しく見ていく必要があります。
李徴の性格と物語の導入
まず、あらすじでも紹介したように李徴は才能にあふれた人物でした。
しかし、自分の力を過信する、我の強い性格という欠点もあったのです。
これは冒頭の部分からもわかりますね。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
そんな彼は地方役人としての生活が耐えられず詩作の道に入りますが、妻子を養うため断念。
再び下級官吏として働きますが、「才能ある自分がどうしてつまらない仕事をしなくちゃならないんだ…」と自分のプライドの高さに苦しめられます。
その後は、突然夜中に走り出したと思ったら、虎になってしまったということが語られていますね。
そして、かつての友人、袁傪に出会い今までのことを語り合います。李徴はこの会話の中で、自身の心境を吐露しています。
次は2人の会話を見てみましょう。
人の心を失っていく李徴
まずは、虎になり徐々に理性が失われていく現状について語っています。
今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。(中略)
しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。
今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。
これは恐しいことだ。
今少し経たてば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。
そして続けて次のように語っています。
己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。
これも良く国語の問題に選ばれるところですね。どうして、人間の心が消えれば李徴は幸せになれるのでしょうか。
現在の李徴は中途半端に理性が残っている状況です。そして、人間の心が残っているからこそ、自分が虎の姿で行ってしまった残虐な行為に心を痛めています。
もし、人間の心が完全になくなってしまえば、そんな風に心を痛めることもないですよね。だから、人間の心が消えれば李徴は悩みから解放される=幸せになれるのです。
しかし、理性をすっかり失ってしまうということは、人間を完全にやめてしまうということでもあります。だから、李徴は人間の心を失っていくことに恐怖を感じていました。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心
また、李徴は袁傪に自分の作った詩を披露した後、心境を吐露しています。
何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。
人間であった時、己は努めて人との交りを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
ここで「山月記」の中でも重要なキーワードが登場します。それは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という二つの心。李徴はこれによって虎になってしまったのではと考えています。
では、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とはそれぞれどういうことでしょうか。まず、「臆病な自尊心」についてみていきましょう。
臆病な自尊心とは?
「自尊心」とは、簡単に言えば「プライド」とか「誇り」ということです。
先ほども見た通り、李徴はプライドが高い男なのですが、それは「臆病な」ものだったというのです。
…ちょっとわかりにくいですよね。臆病と言われているのはなぜなのでしょうか。
簡単に言えば、この「臆病」というのは「傷つきたくない」ということです。
先ほどの引用箇所でも語られていますが、李徴は「詩で有名になりたい」と考えながらも、師匠に弟子入りし、仲間と切磋琢磨することをしませんでした。
有名になりたいなら、師匠や仲間と交流して自分の足りない点を改善することが必要ですよね。しかし、李徴にはそれができなかったのです。
もし、実際に師匠や仲間をもったとして、彼らから「お前は詩の才能がないなー」と言われたらどうでしょうか。誰でも、ものすごく傷つきますよね。
自分で誇りに思っていないことを指摘されても別に傷つかないですが、自信満々なことをけなされたらダメージが大きいです。李徴はプライドが高く、詩の腕前にも自信はありつつも、足りないところの自覚もありました。
己の珠に非ざることを惧れるが故ゆえに、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
だから、自分の鼻がへし折られる前に、そもそも人と交流するというのをやめてしまったのです。そうすれば、絶対に傷つけられることはないですからね。
これが「臆病な自尊心」が指している内容ですね。
尊大な羞恥心とは?
次に「尊大な羞恥心」の内容を見ていきましょう。
「羞恥心」というのは「恥ずかしい気持ち」ですよね。「尊大」というのは、簡単に言えば「ものすごく偉ぶっている」ということです。
このふたつの言葉は矛盾しているように感じますが、どういう意味なのでしょうか。
これも先ほどの引用箇所に出ていますが、李徴は人との交わりを避けており、それを見た人からは「李徴は尊大な奴だ」と思われていました。しかし、李徴は「それはほとんど羞恥心に近いものだった」と語っています。
整理すると、李徴は人と接するのが恥ずかしいあまりに、偉ぶった態度をとって他人との接触を避けていたということです。
これが「尊大な自尊心」の内容ですね。
以上の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のために、李徴は人と交わることなく自分の殻にこもって生きてきました。
だからこそ、袁傪は李徴の詩を聞いて「何かが欠けている」と感じたのでしょう。
袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。
成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。
虎になった原因
虎になってしまった理由について、李徴は次のように語っています。
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えていったのだ。
ここに見られるように、「尊大な羞恥心」が「虎」そのものだと李徴は語っています。
そして「尊大な羞恥心」が李徴の外見も虎に変えてしまったと言っていますね。
これではまだ納得できないかもしれないので、補足をしておきましょう。李徴が虎になったのは、彼が「人間らしさ」を失ってしまったからと言えます。
では、人間らしさとは何でしょうか。ヒントは本文の後の方に書かれています。
最後になって、李徴は袁傪に自分の妻や子供の保護を依頼します。そして、このように自嘲しているのです。
本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。
飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
「人間らしさ」とは言い換えれば「他者への思いやり」のことです。
動物も時には他の個体を思いやる行動をとりますが、人間には及ばないと思います。
しかし、李徴はどうでしょうか。彼は一言でいえば、「非常に自己中心的な人間」です。自分の詩作のために、妻子は後回しにしていることからもそれは言えますよね。
完璧な人間はいないので、誰しも問題を抱えているのですが、自分の欠点を何とかして人と付き合っています。
ですが、李徴の場合は「尊大な羞恥心」という欠点を克服するどころか肥大化してしまい、どうにもならなくなったのです。そして、人のことを思いやれず自分中心にものを考える李徴が出来上がったのです。
中島敦は自分の心の猛獣に押しつぶされた姿を「虎になった」と表現しているのだと思います。
タイトルの「山月記」が意味するものとは
最後にこの作品のタイトルについての感想を述べたいと思います。今まで見てきた通り、本作は「虎になった男」の物語です。
原題となった小説は「人虎伝」という風にわかりやすい表題がつけられていますが、中島敦は何を思って「山月記」としたのでしょうか。
私はこの「山月」には「李徴の孤独」が表現されていると思います。本文中でも、
己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。
誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただ、懼れ、ひれ伏すばかり。
山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。
天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない
このように、山で月に向かってほえても、李徴の苦しみは理解してもらえないということが語られています。
もの言わぬ「山月」にはこのような意味が込められているのではないでしょうか。
書評・総合評価
- よみやすさ:★★★
- おもしろさ:★★★★
「山月記」を5段階で評価してみると、このようになりました。
内容は素晴らしく、李徴が苦悩する姿を通して、多くの方が共感できる心理状態や人間の心の深い部分を描いた作品だと思います。
割と短めで読みやすい作品なのですが、今回詳しく解説したような疑問が残りやすい内容だと思います。
はじめて読んだ後には分かったような分からないような、なんだかモヤモヤしがちな作品ですね。
授業で扱ったけど、それ以降読んでいないという方にはぜひもう一度トライしてほしい作品です。
おわりに
今回は中島敦の「山月記」のあらすじや解説をご紹介しました。
「人間は誰しも猛獣使い」だという李徴のセリフにもありますが、私たちの心にも虎がいます。
自分の心に振り回されてはいけないという意味で、李徴の姿は万人の反面教師ですね。ぜひもう一度読んで、味わってみてください。
中島敦の小説は「李陵」や「弟子」、「文字禍」などもおすすめ。あまり知られていないかもしれませんが、良い小説だと思います。
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